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フォードは直ちに、同社がその後T型のみの生産に集中し、他の銘柄の生産を中止することを宣言した。さらに一九一〇年の元日から、世界最大の自動車工場で、流れ作業の生産ラインを備えたハイランド・パーク工場が稼働を開始し、T型が続々と市場に送り出された。伸び続ける生産T型の生産台数は一九〇九年には一万三八五二台、一〇年は二万七三九台とさほどの数ではなかった。このときの全米生産台数は一二万七二八七台と一八万七〇〇〇台であるから、T型の市場占有率(以下、シェア)はそれぞれ一〇・九%と一一・一%となる。
ヘンリー・フォード自身もT型はせいぜい一〇万台も売れればよいと予想していたほどである。しかしT型累計生産台数が一〇〇万台をこえた二〇二万九二〇台二五年には、全米生産九六万九九三〇台に対して四一万八一〇〇台と四三%を、さらに第一次大戦後の二四年には実に五五・三%をT型が占めるまでになった(全米生産三六〇万二五四〇台、T型一九九万一五二〇台)。
価格も一五年には四九〇ドル、二四年には三八〇ドル、そしてその翌年には二九〇ドルに下った(最低)。ティン・リッツィの氾濫T型はアメリカを象徴するコカコーラやハンバーガーのように、世界中の市民生活の改変を行った。人びとはモデルTの歌をうたい、その本を書き、生活の伴侶とし、そしてジョークを言った。「T型は決して追い越すことができないなぜなら二台抜いても)その先に必ずT型がいるから……」。ティン・リッツィ(ブリキ製の安グルマ)の愛称で親しまれたT型は、なぜこれほどにも売れたのか?その理由はいくつかある。第一に考えられるのは、広大きわまりないアメリカ大陸において、一部の鉄道を除いては交通手段が極度に不足していたことがあげられる。
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自動車に限らず、二〇世紀の科学技術の産物は、絶え間ない進歩発展を前提とする。一種の自転車操業といってもよい。それが停止したとき、残る道は滅びでしかないのが宿命であるというのが科学技術万能時代の信仰でもあった。
ベンツがその辺のところをどう考えていたのかよくわからないが、二〇世紀に入ると、さすがに彼も、好きではなかったが自動車レースに参加して自社製品の真価を広く知らしめる必要に目ざめた。はじめはダイムラー・チームに歯が立たなかったが、ハンス・ニベルをはじめとする若手の優秀な技術者の手でそのレーシングカーはしだいに強力になり、一九〇八年の、当時唯一のグランプリ・レースであるフランスGPでは、メルセデス(ダイムラー社)につづいて二位に入った。